富士山御殿場口登山道

当登山道の歴史は1873年(明治6年)にさかのぼり、明治6年伴野佐吉翁ら沿道の有志30人らによって富士山新道開発の出願から始まった。

1882年(明治15年)6月15日に待望の許可が出るまでの10年間、他の登山道の反対もあり却下され続けてきたがやっと許可がおり1年間かけて登山道整備し1883年(明治16年)8月17日大迫貞清県令を招いて開通式を実施した。

当時のルートは竹之下から深沢、御殿場、西田中、仁杉、中畑を経て馬返しが終点であったが須山口2合8勺(次郎坊)までを結び東表口登山道として完成した。その後、東海道線御殿場駅が1889年(明治22年)に整備され、1890年(明治23年)開通し、現在の登山道に変更され新橋浅間神社が基点となった。

引用:

https://www.fujisan-akaiwa8go.jp/gotemba-140/

 

 

 

富士山の登山道はたくさんある。代表的なものとしては、

  • 富士宮口(表口)
  • 御殿場口(東表口)
  • 須走口(東口)
  • 吉田口(北口)
  • 河口湖口

などがあり、これらの他にも麓から他の登山口の途中までとか、古くから知られていながら廃れてしまった登山口などが存在する。

昔から、富士山の南側(静岡県側)から見た姿を“表富士”、北の山梨県側から見た姿を“裏富士”と表現する習慣があり、これによって登山口も“表口”“東表口”などと呼ばれるが、山梨県側は裏という表現を嫌って吉田口は“北口”と称している。

御殿場口のルートは、旧東海道線が御殿場を通過するルートに決まり、富士登山に最も便利な駅となるため、御殿場から登る登山道を開くこととなったもので、明治16年(1883)に開通。明治22年(1889)に御殿場駅が開業すると多くの登山客が集まり賑わった。

引用:

https://840.gnpp.jp/gotenbatozando/

 

 

御殿場口登山道の始まり
1872年(明治5年)に明治政府により富士山の女人禁制が解禁されました
1873年(明治6年)実業家の伴野佐吉ら沿道の有志が県庁に富士山新道開発の出願をし、1882年(明治15年)に許可がでました
1883年(明治16年)伴野佐吉が私財で一年がかりで整備し、御殿場口登山道が開通しました
1889年(明治22年)東海道線が開通し御殿場駅が開業すると、駅からの登山者が増えて御殿場口も賑わうようになりました

登山道の中でも一番新しく、登山道に急斜面や岩場が無く、女子供でも安全に登れる登山道というキャッチフレーズで登山客を呼び込んでいました

御殿場市内の桜公園の県道23号線沿いに「富士山道路開通記念」の石碑があります

新五合目
現在、御殿場口新五合目がある場所は、もとは二合目と言われていて、御殿場市営スキー場が営業(1975年~1990年)していた頃は、富士急バスの二合目バス停がありました
1960年代に他の登山道が登り口を新五合目と名乗り始め、御殿場口も登山者を呼び込もうと二合目を新五合目と呼び換えたため、本来の五合目を新六合目と呼ぶようになりました
7合目から上は呼び方を変えていないため、新五合目から新六合目まで一合なのに1150mも標高差がある登山道となりました

御殿場口の山小屋
登山者の増加に伴い1887年(明治20年)に岩室(山小屋)が二合目に建設され、1892年(明治25年)年には富士山東表口組合が結成され「富士登山ニ関スル営業人規約」がきめられました
1894年(明治27年)には、太郎坊から山頂まで12の岩室(山小屋)がありました
※「玉穂の歴史」(玉穂報徳会 発行)より

昭和20年代の御殿場口には、各合目ごとに小屋や気象庁の施設があったようです
昔の金剛杖の焼印や、インターネットで検索した情報から調べてみました
まだ充分に調べきれていないので、けっこう間違いや抜けがあるかもしれません
旧xx合目に関しては、国土地理院の地形図の合目を表示しています(内は現在の合目です)

引用:

https://warazikan.main.jp/history/history.html